文様の歴史6 江戸時代(2)

扇絵師 宮崎友禅
友禅染の祖といわれる宮崎友禅の生誕について、詳しいことはわかっていませんが、1654年(承応3年)頃に生まれ、元禄の頃京都の智恩院の門前に住んでいたとされています。そこで友禅は、主に扇絵を描き、京の町で人気の扇絵師としてその名をはせていました。その後、扇絵で学んだ斬新な絵柄を独特の技法で小袖に表わしたことで、友禅染のすばらしさを広く世間に流行させました。

宮崎友禅が残した友禅染
友禅染は、複雑多彩な色を使うので、染料が他の部分ににじまないように、防染する必要があります。防染には、モチ米の糊を用いますが、その技術は、すでに古くから行われていたようです。宮崎友禅は、その防染の技術や染料を改良し、何よりそのデザインが当時の人々の心をつかむ斬新さを持っていたことで、大流行を呼んだと思われます。
友禅意匠を集めた「友禅ひいながた」には、独自のデザインはいうまでもなく、技術上の工程も記述されています。

縮緬地枝垂れ桜に海老蘇鉄模様小袖 (江戸中期)
木村染匠所蔵

白縮緬に加賀調の友禅で染めた小袖であるが、模様の変わっている処が、甚だ面白い。
岩に蘇鉄が画かれ、大きな蝦が配されている処は、何か判じ物のようにみえるが、蘇鉄の育成している奄美群島の近海には、実際に大きく、美しい錦蝦が遊泳しているのである。
そういう点からすると、この意匠はたんなる絵空ごとではなくなるのであるが、現代と違って、潮路遥かな遠い島まで、当時の絵師や染匠が行く筈もないから、おそらく話を聞いてでも意匠にしたのであろうが、それにしてもなかなかよくその感じが表現されている。更に枝垂れ桜の表現もその染法には相違があるが、描写は琉球の紅型を想起させるものがある。そうしてもると、ここには、南の島のイメ−ジが色濃く盛り込まれているように感じられ、琉球貿易でもしていた分限者の特別な注文によって作られたのかもしれない。
何か意味ありげな小袖である。
桜の花の一部は鉄媒染のためであろう、絹に穴があいてしまっているが、それは推察すると、この花は、蘇芳に鉄をかけた紫ででもあったのであろう。
縮緬知懸泉に薔薇模様小袖

close-up

江戸中期 木村染匠所蔵
模様の糊置きをして、藍に染、糊をおとして白上げにした上で、その一部に色差しを加えた中期の小袖です。
白上げという糊置き技法を効果的に意匠に生かしながら、友禅と程好く調子をとっている点、見事なできばえといえます。このような技法は、雛形本によると、中期には盛んに行われていたと考えられるので、もっとの普遍的なものであったようである。薔薇はわが国においても広く見られ、染織意匠としても江戸中期のころより取り上げられているようです。
友禅染の完成
小袖の文様染色において、友禅染の発明は画期的なことでした。複雑で多彩な絵文様を自由に染め、織物では出せなかった軟らかな文様を描き出し、慶長文様や寛文文様とも違う、"やわらかなキモノ"を作り出しました。その美しく、やわらかなキモノには、まず技術上、友禅独自のものが見られます。あくまでも軽やかな美しさを喜ぶ時代の感覚にかなった友禅染は、多くの人々を魅了しました。
現在の振袖や留袖には、友禅染技法が、豊かに取り上げられています。さらに刺繍や金銀の加工をあわせて、まさに「染繍芸術」と呼ばれるのがふさわしい世界です

小袖文様の変化
江戸時代中期から後期にかけて、武家の御殿で着用される衣服に楼閣山水〈ロウカクサンスイ〉に四季の花などを染めた「御所解」という上品な小袖が出現します。この小袖だけでなく、大名達の奥向きにも取り入れられ、「武家小袖」の代表的な文様となりました。
この染は、縮緬などを用いた場合には、細やかな文様を白あげとし、他に少しの色を挿し、刺繍を加えて彩〈イロド〉りとしています。